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歴史探訪

『 岩村城の歴史と主な城主 』

本丸裏門付近  文治元年源頼朝は義経捜索の為に、諸国に守護地頭を置きました。源頼朝の重臣加藤景廉(かげかど)が遠山の庄地頭に補せられたのはちょうどこの時です。景廉は、頼朝の側近として最後まで奉仕し、岩村には住まなかったと言われ、岩村城の創築は、景廉がその基礎を作り、実際に城を築いて住んだのは、その子景朝(かげとも)とされています。その証は景朝が初めて遠山氏を称したことによってわかります。 戦国時代には、東は甲信の武田信玄、西は濃尾の織田信長、南を三遠の徳川家康といずれも天下を取ろうと野望に燃える英雄達に囲まれ、地理的に岩村城はその中間の前戦地、力と力の接触点にあたり、女城主の逸話などが今にその歴史を伝えています。 岩村城は文治元年(1185)から慶応四年(1868)まで、683年間にわたって連綿と続き、中世から近世に及ぶ武門政治の行われた全期にわたって、城が厳存したことは、日本の城史にも例をみないものです。
 主な城主と政策内容

◎遠山氏時代(鎌倉~室町 388年間)

加藤景廉(かげかど 文治元年(1185)遠山庄地頭に補せられて岩村城を創築。源頼朝の重臣。
遠山景任(かげとう) 元亀元年(1570)秋、武田信玄の将 秋山信友 が侵攻してきた際に出陣した。 岩村遠山氏最後の城主。妻は織田信長の叔母で、女城主
御坊丸 信長の五男で景任の養子。8歳にて家督を相続するも、事実上は景任未亡人が城主として采配を振るった。秋山入城後は甲府へ人質として送られる。天正9年人質開放の後織田勝長と称し、本能寺の変に父とともに戦死する。

◎戦国時代(安土桃山時代 28年間)

秋山信友 景任夫人を妻とする。天正三年織田信忠軍に攻められ落城。大将陣にて妻ら五人と逆磔により殺された。
森蘭丸 18歳にて城主。信長の愛臣。本能寺の変にて戦死。
森長可 蘭丸の兄。小牧山の戦いに秀吉の旗下として戦い長久手において戦死。
森忠政 蘭丸・長可の末弟。慶長四年まで城主。天寿をまっとう。
岩村城主森蘭丸、森長可、森忠政の森三代の城代を務めた各務兵庫は、18年余りをかけて岩村城を近代城郭に改造し、領下は天正検地も行われました。

◎岩村藩時代(江戸時代)

松平家乘 城の麓に藩主邸を造営し、これを中心にして城下町を経営した。尾張・三河方面から有能な商人を招聘して、城下町の繁栄を図った。林述斎・佐藤一斎を輩出。兵農・商農の分離。
松平乘紀 文教政策に志し城下に藩学としては全国で3番目にあたる学舎を興し、知新館の前身である文武所とした。
松平乘賢 歴代藩主の中で最も名君の誉れ高き人。幕府の老中に抜擢され、領地も一万石加増され三万石となった。
松平乘命 明治元年官軍に帰順ついで版籍奉還。
遠山時代(鎌倉~室町 388年間)/戦国時代(武田氏と織田氏の攻防の狭間)/江戸期初期(松平氏・丹羽氏)/松平氏時代(大給松平氏・文教藩体制)と、4つの時代区分を経て、存続していました。