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女城主

『 女城主の物語 』

天正元年、武田信玄に仕えた秋山信友は、城主遠山景任を亡くし未亡人となっていた修理夫人(女城主)が織田信長の五男御坊丸を養子として守っていた岩村城を攻撃。なかなか陥落しそうもないため、秋山は計を巡らし、密使を城中に送った。 「結婚して無事に城を明渡し、御坊丸を養子として家督を譲ることとしてはどうか」などとひそかに夫人を説得した。 夫人も到底最後まで城を守ることができないと悟り、この提案を承諾。家臣や領民を守ることの引き換えに政略結婚の道を選ぶこととした。 しかし、信友は信長の叔母と結婚したことを信玄に嫌われるのを悟り、御坊丸を甲府に人質として送ってしまった。御坊丸は七歳の時だった。 これを聞いた信長は大いに怒ったが、その頃は武田の勢が強く、かつ近畿攻略に追われていたので、そのまま放任せざるを得なかった。しかし、信長は、岩村城を信友に奪われたのを無念とし、その周辺の小城に加勢を送り、ひそかに岩村城の奪還の期をうかがうこととした。 天正3年3月、長篠の戦に武田勝頼の軍が敗戦したことにより、武田と織田の勢力の均衡が逆転。信長はこの機を逸せず、同年6月、岩村城を攻略すべく嫡子信忠を大将とする軍勢を岩村城攻略に送り込んだ。信忠の大軍は数日間激しく攻め立てたが、岩村城兵も命を惜しまず防戦したため、容易に攻略はならず、信忠は戦法を変更し持久戦をとることとした。6月から10月まで数ヶ月の時が経ったころ、さすがに城中も次第に糧が乏しくなり、兵卒も疲れをみせはじめ、武田の応援も無くなり、ついに岩村城は陥落した。 信長は、秋山信友をはじめ修理夫人(御坊丸を人質としたことを憎まれていた)らを岩村城外の大将陣において、逆磔(さかさはりつけ)にして殺害。この時夫人は、声をあげて泣き悲しみ、「我れ女の弱さの為にかくなりしも、現在の叔母をかかる非道の処置をなすはかならずや因果の報いを受けん」と絶叫しつつ果てたという。 信長が本能寺で殺される、七年前の出来事だった。