1768年(明和5年)~1841年(天保12年)
江戸時代後期の儒学者。 幼い頃より勉学を好み、若くして朱子学派を率いるまでになった。
岩村藩主松平乗薀(のりもり)の三男であったが、 1793年(寛政5年)26歳の時、幕府の命により林家の養子となり、昌平黌(しょうへいこう)を幕府直轄化の学校とすることに推進した。その大学頭となって、後に寛政三博士と呼ばれる柴野栗山、古賀精里、尾藤二州らと共に、幕府教育行政の充実を図った。佐藤一斎の師でもある。
1811年(文化8年)の朝鮮通信使の易地聘礼においても随員として対馬に赴き、通信使の饗応にあたった。