1772年(安永元年)~1936年(昭和11年)
この人物が居なかったら、日本の夜明けは無かったかも知れない。」と言われる幕末から明治維新にかけて、新しい日本をつくっていった指導者たちに多大な影響を与えた儒学者。門下生には、佐久間象山、山田方谷、渡辺崋山などがおり、一斉の著書である「言志四録」は幕末の西郷隆盛、勝海舟、坂本竜馬などに大きな影響を与えたと言われている。特に西郷隆盛は言志四録(1133条)の中から101条を抜粋した「南洲手抄言志録」 を終生持ち歩いて人生の戒めとしていた。
岩村藩の家老・佐藤信由(のぶより、号は文永)の次男として、江戸浜町の下屋敷(現東京都中央区日本橋浜町)で生まれた。幼くして読書を好み、水練・射騎・刀槍などに優れ、小笠原流礼法を身に付けていた。 34歳で朱子学の宗家林家(りんけ)の塾長となり、大学頭(だいがくのかみ)林述斎(じゅっさい=岩村藩主・松平乗蘊<のりもり>の三男)とコンビを組み、多くの門下生の指導に当たった。 55歳の時、岩村藩主となった松平乗美(のりよし)の老臣に加えられ、「重職心得箇条」「御心得向存意書」を著し藩政に尽力した。 1841年(天保12年)、述斎が74歳で没したため、70歳で幕府の学問所昌平黌(しょうへいこう)の儒官(総長)を命じられた。1854年( 安政元年)、83歳の時、日米和親条約締結に際し、時の大学頭林復斎(ふくさい=述斎の六男)を助け、外交文書の作成などに尽力した。
城下町には一斎が残した名言が書かれた200枚もの木板が家々の軒下に掲げられ、また各所に建てられた碑文など、至るところで一斎の言葉に触れることができます。